片手にドーナツ、心に花束

西部劇、マカロニウエスタン、ときどきアメコミ。

【さすらいのカウボーイ】


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The Hired Hand

1971年。監督ピーター・フォンダ。主演ピーター・フォンダ。音楽ブルース・ラングホーン。

ピーター・フォンダなのであった。

嗚呼、カッコいいよピーター・フォンダ。そんな映画なのであった。というのは嘘でもちろんそれだけではない。アメリカンニューシネマ枠で語られる映画である。「イージーライダー」で死ななかった3人のその後、といった感じで、好き勝手やってた若者が好き勝手やることに疲れて安定を求めようとする。「イージーライダー」と同じく3人である。バイクのイメージを消すために西部劇を選んだらしいが、それだけなのかどうかはわからない。パパはヘンリー・フォンダですから。

さらにはバディのアーチを演じたウォーレン・オーツだ。サム・ペキンパー作品によく出てる俳優だ。とにかく彼がいい。荒っぽい役柄のイメージだが、こんなにも優しくて温かい男を演じるのかと感動したのであった。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

で、こんな話さ。

7年の放浪生活に飽きた・疲れた・嫌になったハリーは奧さんと子供の元に帰ることにする。カリフォルニアを共に目指していた相棒のアーチも、じゃあ、って一緒についていくことにするのであった。でも、というか当たり前だがさすがに結婚生活2年弱の後に7年の失踪ではすんなり受け入れてもらえるわけもなく、アーチと共に使用人として雇ってもらうことになったハリーであった。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

そこで一生懸命働くハリー。改心しましたアピールのために汗を流すよハリー。娘は自分よりもアーチになついてんじゃね?って気がするハリー。でもトラブルに巻き込まれたアーチを助けるためにまた出ていくハリー。アーチを助けたら戻ってくると約束したがその約束を永遠に果すことはできなくなったハリー。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

とにかく映像が美しいのであった。執拗に繰り返されるオーバーラップ。逆光。川を流れる少女の死体。スローモーション。こういう垢にまみれた手法を多用すると、ウザっ、ってなることが多いのだが、「さすらいのカウボーイ」ではそのようなことはない。多くを語ることなく、緩やかに静かに映画は進んでいく。遠い記憶や不確かな未来が淡い光の中で折り重なっていく。そこには幾つかの選択肢があったかのように。そこには多くの無駄があったのかもしれないし、そんなことはなかったのかもしれない。明日は絶望的かもしれないし、輝いているかもしれない。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

男たちが7年間どこでなにをしていたのかは語られないが、ハリーの妻ハンナがどうなっていたのかは語られる。それはつまり男たちの日々は語る必要性がないということで、ハリーは7年の放浪の挙げ句に何も変わることはなかったということで、変わったのはハンナだけで、女性の視点から見ればハリーはやはり単に疲れ果てて帰ってきただけの身勝手な男なのだ。しかもアーチを連れて帰ってきた。男と女。男と男。アーチは男だが、ハンナからすればハリーの浮気相手のような存在である。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

そんなアーチを演じるウォーレン・オーツが素晴らしい。こんなにも優しい眼差しをする俳優だったか、と思ってしまう。ペキンパー作品ではまず見せない眼差し・表情である。

人生の岐路に正しい選択肢というものがあるのかどうかはわからない。7年前に放浪の旅に出なければハリーはどうなっていただろうか。アーチを助けに行かなかったらハリーはどうなっていただろうか。幾つもの仮定の選択肢が重なっていくだけである。だが、そもそも選択肢なんてあるのだろうか?その岐路は実在したのだろうか?あったにせよ、なかったにせよ、いやなかったのなら尚更、存在の不確かな選択肢が重なれば重なるほどに、それはとても虚しいことである。

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映画「さすらいのカウボーイ」より

それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。