KEOMA
1976年。監督エンツィオ・G・カステラッリ。主演フランコ・ネロ。音楽グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス。
マッドマックスの原型、というのは言い過ぎだろう。でもそう言われてた。ほんの少しだけ終末感は漂ってはいるが、なんか違う。いや、かなり違う。強いて言えばケオマ所有のショットガンがマッドマックス似であったことくらいだ。
で、こんな話さ。
南北戦争が終わり故郷に戻ってきたケオマ。でも町は伝染病に汚染され、さらにはコールドウェルっつう野郎に支配されていた。感染者は鉱山に隔離され、町は物流も滞り町から出ることも許されないという状態なのであった。どげんかせんといかん!とケオマが思ったかどうかはわからないが、君たち不甲斐ないじゃないかと地団駄を踏んだり踏まなかったりして身重の未亡人を助けることで町の再生を図ろうとするケオマであった。
舞台は伝染病が蔓延した町なわけだが、悲壮感があまりない。ケオマは鉱山へ隔離されようとしている町の住民たちに遭遇し、なんか流れで感染グレーゾーンの妊娠中の人妻を助ける。で、町に連れていき現状を知る。町では感染が疑わしい者は徹底的に排除され、さらにはかつては憧れであった使用人のジョージは酒びたりで残念な感じになっていて、町全体が無理っしょ、わしら廃人っすから。って人間としての誇りや尊厳を喪失しているようだった。
さらにケオマとは腹違いの三人の兄者たち、コールドウェルと協力関係を結びつつ町の支配を目論んでいる兄者たちとの確執までをも背負って、ケオマはショットガンを炸裂させるのであった。
編集が奇抜というか独特でわかりにい。回想シーンが現在のカットに入り込んでくるという演出、今では珍しくもないが、まさか70年代の西部劇でそのような演出がなされるとは思いもよらず、すぐには頭に入ってこなかった。センスのある監督なのかもしれないが逆にわかりづらくなってしまった。
要所要所で入ってくる心情を説明してくれる歌もまた独特だ。メロディは同じで歌詞だけが変わる。さらには神出鬼没の正体不明の老婆。色んなことを実験的に試したのか、盛りだくさんである。主人公ケオマもネイティブとの混血児だが、むしろ見た目はヒッピーだ。というかフランコ・ネロが混血に見えない。ヒッピー、フーテンみたいな装いにしてどうにかハーフに見えるように頑張った。でも駄目だった。見えなかった。
盛りすぎだろ。
そもそもコールドウェル一味がどうして住民を町に閉じ込めているのか、よくわからない。なんで流通をストップしているのかよくわからない。悪人が何をしたいのかわからない。悪人は住民を閉じ込めることに全力投球で意味がわからない。町が繁栄しないじゃないか。そのせいかコールドウェル一味との決着はけっこう素っ気なく、ラストバトルは骨肉の争いに譲られる。ケオマのパパは腹違いのケオマを妙にかわいがり、そのせいで正妻の三兄弟は、ちぇっ、なんて世間に背を向けて悪の道を歩んでしまったのであった。
謎の老婆が徘徊して、未亡人は産気付いて、味方のパパは殺され、誇りを取り戻したジョージも殺され、兄者三人を撃ち殺し、イクメンにはなれそうもないと思ったのか最後は謎の老婆に産まれたばかりの赤子を押しつけて町を去るケオマであった。どうなっちゃってんだよ。
正直、よくわからなかった。マカロニも70年代後半になると、わちゃあ、ってのが増えてきます。とにかくカオスである。理屈抜きでわけのわからん映画を見たい!という猛者にはオススメ。
それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。