Seraphim Falls
2007年。監督デヴィッド・フォン・アンケン。主演リーアム・ニーソン。ピアース・ブロスナン。音楽ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ。
移りゆく季節に感謝。
雨降りつづきの毎日で重たくなるけど、雨にも感謝。
その一粒一粒に感謝。
その日々に感謝。
ぼくは君に会いたい。
でもさ、ときどきぼくは思うんだ。最近のウエスタンは良作が多いけど、どうしたってポスターが魂に響かないんだ。届かないんだ。こんなこと言ってはいけないけど、突っ込んでないんだ。彫り込んでないWORKにしか見えないんだ。昔は良かったとかなんとか、しみじみと言ってはいけないけど、やはりぼくはそう思うんだ。
そんな「セラフィム・フォールズ」はランボーみたいな西部劇なんだ。
素晴らしいよね。
素晴らしいと思う。西部の大自然を舞台に追うものと追われるものを描いた映画なんだ。
木が揺れて風が吹くわけじゃないよ。
そっと目を閉じるために太陽の光が降り注ぐわけじゃない。
だからこそ海と大地と緑に感謝。昨日のぼくに感謝。五行前のぼくに感謝。右も左もわからないヒヨッ子たちにはエール。君がいて、ぼくがいる。浜に感謝。この気持ち、宇宙の果てまで届くといいな。
そこで、こんなものがたり。
南北戦争終結後、何処だか、誰だか、何故だかわからないけど雪山で一人の男が数人の男に追われてる。追う男たちは一人が雇い主カーヴァーで、あとは雇われた者たちのようさ。
追われる男はギデオンというらしい。
ドキドキするよ。なにがなんだかわからないからドキドキするんだ。毎日が新鮮で、朝からドキドキが止まらないように。登りくる太陽に感謝。沈みゆく太陽に感謝。
このまま緊張感を維持して、胸のトキメキを抑えられないまま雪山や灼熱の荒野で追跡劇はつづいていくんだ。
カーヴァーはギデオンを生け捕りにするためなら手段を問わない。追われるギデオンのほうが人間味のある男、ソウルフルな男のように思える。
カーヴァーはハートをどこかへ置いてきてしまったみたいだ。
哀しいよね。
どうやらカーヴァーとギデオンは過去になにかあったらしい。セラフィム・フォールズという土地で。
カーヴァーは復讐を果たそうとしているらしい。
でもギデオンはランボーのような男だった。凄まじいサヴァイブスキルをもっていた。だからカーヴァーの使用人たちは次々とやられてしまい、最後はカーヴァーひとりになってしまうんだ。
でもぼくらはひとりじゃない。手を伸ばせば誰かの手に繋がるよ。
セイ・ハロー。
セイ・ピース。
このバイブレーション。無限に広がっていくサークル。感謝。
あまり期待せずに見たけど、なかなかの良作だったと思う。リーアム・ニーソンは西部劇ではもはや尻に花を突っ込まれる男、というイメージが固定されてしまってどうしようかと思ったけど、大丈夫だったよ。西部の男だったよ。
正しい心で見ることができたんだ。
ブロスナンには多くのことを教わった。大自然とともに生きていくって、とてもステキなことだと思うんだ。すべての生命たち。朝のやわらかい光や躍動する風の歌。
ねえ、そこから木々のささやきは聞こえるかい?万物に感謝。生きてるんじゃない。生かされてるんだ。誰もがこの世界のハート・オブ・ソウルなんだ。ブロスナンは教えてくれたんだ。感謝。
追う男と追われる男、傷つけられた男と傷つけた男。二人の行き着く先はどこなのだろうか。そこがどこだとしても、ハッピー。
ハッピーなはずじゃないか。
僕らはハッピーになるために生まれてきたんだ。
そうじゃないと嘘だと思う。
生きてることが大好きで、意味もなく興奮してる。憎しみからは何も生まれない。認めること。許すこと。感謝すること。そうすれば戦争なんて起こらないよ。この確かなバイブレーション。
でもいつか死ぬ。みんな死ぬ。西部劇はピストルで人をブチ殺す映画だって、誰かが昔に言ってたよ。そのとおりだと思う。
大きな川を渡る橋が見える場所を歩きながらぼくもそう思ったんだ。
それじゃあみんな、ぼくらの毎日は愉しいだけじゃないよ。哀しいだけでもないよ。さよならなんて云えないよ。