最近やたらとフィッシュマンズを目にする。
なんでかなあ、と思っていたらどうやらフィッシュマンズのドキュメント映画が公開されたからのようで、まあ納得はしたけど、不思議な感覚は消え去らない。映画も見たいとは思わない。
よくは知らないけど、フィッシュマンズは今でも現在進行形のバンドで、ドラムの茂木欣一が中心となって色々と活動しているようだ。それで、今年がデビュー30周年の節目で、そんなこんなで映画が公開されたらしい。
僕の中では佐藤伸治の急逝と同時にフィッシュマンズは解体され、レコードやCD、僕の思い出の中にだけ存在しているバンドとなった。止まった時間の中で永遠に鳴りつづける音楽となり、この時間が再び動き出すことはない。
なのでそれ以降のフィッシュマンズのことはよく知らない。
でも、今でもよく聴いている。
でも、やっぱり映画を見る気にはどうしてもなれないだろう。色んな人が、フィッシュマンズについて、色んなことを語ることに、まったく興味がない。でも予告編だけは見た。遅くて重い感情が襲いかかってきて、涙がこぼれた。
とまあ、見るつもりのない映画を紹介する。紹介にもなってないが。
フィッシュマンズの「空中キャンプ」が世に送り出されたのが1996年。このアルバムを初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れることはできないし、あの衝撃を超えたアルバムは未だにない。
最初にフィッシュマンズを聴いたのは、当時、ボーカルの佐藤伸治に似てると言われたからだった。
まあそれは別にいいのだけど、「ずっと前」のイントロのリズムとメロディは、ぼくの立っている場所が、遂に新たなるステージに到達したのではないかと錯覚するほどのトキメキを包含したものだった。べつにぼくが何かをしたわけではないのに。一歩でも前に進んだわけではないのに。
よしもとよしともの「青い車」という短編集が世に送り出されたのも1996年だった。
この短編集に収録されている「オレンジ」という作品は、フィッシュマンズの同名アルバムから取られている。
色んな人が、フィッシュマンズについて色んなことを語ることにまったく興味がない、と書いたが、よしもとよしともがフィッシュマンズについて書いたテキストは読んだ。
よしもとよしともという漫画家は、僕にとっては特別な存在だからだ。そのテキストを読んて僕がどう思ったか、それをここに記すことには矛盾を感じるのでやめておく。
そもそもアメコミは読むけど、日本の漫画はあまり読まないので、家には日本の漫画はあまりない。あるのはよしもとよしともと、松本大洋と、さくらももこの「コジコジ」だけだった。
よしもとよしとも作品の底に、静かに横たわるだけの、でも臨界点突破寸前のような確かな熱量が、1996年当時の僕の感情を揺さぶりつづけた。
恥ずかしい話だが、今でもそれはあまり変わらない。痛々しいくらいに変わらない。大人になれないすべての大人たちのために、まさにこういうことなんだろう。よしもとよしともの漫画を読んで何も感じないのであれば、それはとても幸せで満ち足りていることなんだと思う。
フィッシュマンズ、よしもとよしとも、それともう一人、1996年に僕の魂を解放させたのがエドワード・ヤンである。
台湾の映画監督で、この年に「恐怖分子」が日本初公開となった。前年にはウォン・カーウァイの「恋する惑星」が公開されて、アジアの新しい才能が日本に紹介されはじめた時期だった。
その中でもエドワード・ヤンは個人的には別格だった。
この「恐怖分子」は10年遅れで日本公開となったので、「空中キャンプ」、「青い車」とともに同時代で語るのはいささか暴力的である。
それでも僕の中では「恐怖分子」は「青い車」の延長線上にある。臨界点を超えてしまった静かな熱量がウイルスのように街に拡散し、そしてパズルのように、在るべき場所に嵌め込まれていくような映画だった。
当時の僕の心の奥底に、暴発寸前の暴力性が沈殿していたかどうかはわからない。静かに日々を暮らすだけの目立たない学生だったが、何かが潜んでいたかもしれない。だがそれは顕現することなく大人になった。いや、ただ歳をとった。
誰にとってもそんな時代があるだろうが、90年代中盤は僕が10代から20代になる頃の年代なので、やはり特別なものだ。
フィッシュマンズのドキュメント映画が公開されるということで、最近やたらと思い出す。
意味なんかないけど、あの頃を思い出す。
思い出すと胸が苦しくなる。
別に現状に不満があるわけでもなく(カチっと満足してるわけでもないけど)、未来が絶望的なわけでもないのだけど、もう二度と戻ることはできない日々や、やり直せないことや、もう二度と会えない人のことを考えると胸が苦しくなる。
フジファブリックの「若者のすべて」を聴いたときのような胸の苦しさだ。
それなのに、最近やたらと思い出したり、ふり返ったりしてしまう。なぜだろう?
僕は強い人間ではないから、前だけ見て進んでいくのはとても難しい。
だから、ずいぶん遠くまできたな、と思う。
1996年に見ていた自分にはなっていないし、想像していた世界にも僕はいない。
だからといってあの頃には戻れないし、やり直せるはずもないから意味なんかないのはわかっているけど、今日も、フィッシュマンズを聴きながら、夜の帰り道を、真っ直ぐには歩けずに、ときどきふり返りながらふらつきながら、ゆっくりと歩いている。
冷たい夜はさぁ 目の前駆け抜けて
彼女の孤独を そっとノックするんだ
トトン トトン トトン トーン
あー、元気ですか?