Manchester By The Sea
2016年。監督ケネス・ロナーガン。主演ケイシー・アフレック。音楽レスリー・バーバー。
いつものような西部劇ではないが、なんとなくこんなときだから違う映画を、と思ったのである。
主演のケイシー・アフレックといえば、このブログでは「ジェシー・ジェームズの暗殺」である。そこでブラッド・ピットとともに最高の演技を見せてくれた俳優で、そのときの記事でもこの映画を力強く薦めていたと思う。
新型コロナのおかげで大変な日々である。
色々と不自由で疲れてる人、何も変わらず働かねばならずに疲れてる人、働くことができずに疲れてる人など。本物の出口がなかなか見えずに、もう嫌だな、と思っている人も多いことだろう。
というわけで、もしよろしければ、というわけでもないのだけれど、とにかくこの映画を推奨したい。
「2020年版 史上最高の映画ベスト50」の36位にランクインされたようだ。
何も起こらない映画である。
いや、すでに起きた後の映画である。やらかしてしまった後の映画で、やらかしてしまったことからなかなか立ち上がれない、という映画である。
映画というのは基本的にファンタジーだと思っている。だから大抵はなんとかなるし、なんとかしてくれる。救済があったり、成長したり再生したりする。素敵な終わり方をする。
もちろんそうではない真逆の終わり方をする映画もある。やりきれない映画もある。どちらにせよそれらは映画というファンタジーの作法にのっとったもので、そこに安心感や満足感を見出したりするわけだが、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はそうではない。
救いはなく、あきらめが漂っている。重い過去を背負う現在がつづいていくだけである。それなのに、なぜか感謝(驚)があり、どこかで誰かが寄り添ってくれているような気がする映画なのだ。
こんな話だ。
ボストンでマンションの便利屋というか清掃業みたいなことをしているリーは、兄のジョーが心臓発作で急死したことを知らされる。故郷であるマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ると、離婚している兄の息子である甥のパトリックの後見人に指名されていることを知る。こんな自分にパトリックの面倒を見ることができるのか、兄を失った哀しみとともに不安を抱えるリーだが、彼はそれ以上の過去の十字架を背負って生きていた。
少しずつ距離が縮んでいくような、そうでもないような、再会してからまったく縮んでないようなリーとパトリックの関係性を軸に、リーの過去が明かされていくのだが、この二人のリアルな距離感が最初から最後までたまらないのである。
すべてがうまくいっていた昔には戻ることはできず、昔のように接することもできない二人。リーはどうにかしようとするのだが、どうすることもできない。
彼には、故郷に戻って暮らすことさえ耐え難いことだった。最後にリーが下した決断、それをパトリックに告げる台詞は映画史に残るものである。
映画が本来もっているファンタジー性を排除することで、観ている我々との距離をゼロにして、スクリーンと観客とをボーダレス化してしまうというマジックを見せてくれた。
今後のことが決まり、先送りになっていたジョーの埋葬の帰り道での二人の不器用な、歩きながらのキャッチボールのシーン。このシーンで涙がとまらなかった。
何もかもに救いがあるわけではない、どうしても立ち直ることができないこともある。という抗いきれない現実を突きつけられたことに、逆説的に救われたような気分になる。
いや、救われる。
この映画は、救いのない映画でありながら、大きくて堅い現実を生きる我々を救済する映画である。
寂しくて悲しくて辛いことばかりならば
あきらめてかまわない
大事なことはそんなんじゃない
という岡村靖幸の歌を思い出した。唐突に。
それじゃあ読者諸君、こんな日々は哀しいだけじゃない。愉しいだけじゃない。一人一人がそれぞれの場所で踏ん張るんだ。がんばらない。怠けないこと。では失敬。
↓ケイシー・アフレックの凄さがわかる西部劇。