広島ジャンゴ2022
作・演出 蓬莱竜太。主演 天海祐希、鈴木亮平。
今回は映画ではなく、演劇。
渋谷のシアターコクーンで公演中の「広島ジャンゴ」を観劇してきた。
ジャンゴである。もちろん、あのジャンゴである。「Django」もしくは「続・荒野の用心棒」のジャンゴである。なので見てきた。
学生時代はよく下北沢の小劇場に行ったり、本当は映画を作りたかったのに、なぜか劇団で座付き作家として戯曲を書いていたりしていたのだが、もうやめてかなりの月日が経過した。演劇を見に行くのも久しぶりである。
で、素晴らしかった!
舞台の強いエネルギーをダイレクトに浴びて、生きる活力を頂戴した。ような気がする。
あらすじは、
舞台は現代の広島の牡蠣工場。 周囲に合わせることをまったくしないシングルマザーのパートタイマー山本(天海祐希)に、シフト担当の木村(鈴木亮平)は、手を焼いていた。 ある日木村が目覚めると、そこはワンマンな町長(仲村トオル)が牛耳る西部の町「ヒロシマ」だった! 山本は、子連れガンマンの「ジャンゴ」として現れ、木村はなぜかジャンゴの愛馬「ディカプリオ」として、わけもわからぬまま、ともにこの町の騒動に巻き込まれていく―――!
【ホームページより抜粋】
ネタバレがあったりなかったりなので、観劇予定の方はここから先は読まないほうがいいかもしれません。
⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇⬇
現代の広島から西部開拓時代のヒロシマへ、かなり奇天烈な設定だが、なんの違和感もなく見ることができた。冒頭の現代広島の牡蠣工場では広島カープネタ満載で、野球好きとしてはいきなり鷲掴みである。複雑な気持ちにもなるカープの使用法ではあるのだが。
もちろん西部劇ネタもあり、主人公の木村はイーストウッドの「ペイルライダー」が好きで、何度も何度も繰り返し見ている。西部開拓時代の木村は馬になっていて、名前はディカプリオである。
もう一人の主人公であるジャンゴ(山本)は「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」のイーストウッドが着ていたようなポンチョを着ている。
当然のように、音楽にジャンゴのテーマなどが使用されたり、「夕陽のガンマン」にでてきたようなオルゴールが使われたり、ニヤニヤしっぱなしである。さらには「それ行けカープ」、オリジナルラブの「LOVE SONG」が非常に効果的に使われていた。
現代広島の合わせ鏡のような西部開拓時代のストーリーは王道の西部劇ストーリーで、水の利権を独占する町長が町を牛耳って、その手下どもが狼藉三昧で、町の住民たちはやってられなくて、そこに訳アリの流れ者がやってきてと、まさに西部劇という感じである。
端的にいえば、この狂った世界で必死に生きようとする二人きりの親子と、この狂った世界を少しでも変えようとする二人の姉弟の物語である。
西部ヒロシマで描かれるストレートなバイオレンスが、現代広島では工場長(権力者)の詭弁や同僚たちの同調圧力などの非暴力で描かれている。そこに日本が抱える闇を感じた。
殴る・蹴る・銃で撃つわけではない日本の暴力。見えない暴力。その暴力に追いつめられていく行き場のない弱者たち。そして暴力を向ける側にも、向けられる側にもなりうる、現実的には最も多くのパーセンテージを占めるであろう、主体性の無い住民たち。つまりは僕らだ。
二人のきりの親子も、主体性の無い住民たちも、そして僕らも、発狂寸前で、ギリギリのところで毎日を生きている。ここではないどこかへ行きたいと願うが、行くことはできないし、どこかへ行ったとしてもそこはここでしかない。だから僕らはここでギリギリに生きている。見えるものを見ようとせずに生きている。人にはそれぞれ事情がある。理不尽と不条理に溢れた世界で理想を掲げるのは簡単だが、実現させるのは難しい。
現代広島(現実)と西部ヒロシマ(夢)を繋ぐブリッジ役に木村の姉がいる。この木村の姉が舞台の肝なのだが、彼女は現実の世界でギリギリからこぼれ落ちてしまった存在である。いや、存在していない存在である。この姉が、弟を導くようにして語っていく。この導きによって木村は、現代広島(現実)ではかつてできなかったことを西部ヒロシマ(夢)で実現しようとする。
そして夢が醒めて、最後は現代広島の牡蠣工場で終わるのだが、やはり現実は大きくて固い。夢のようにはうまくいかない。でも木村は少しだけ変わっていた。この些細な変化が、今度は誰かを救うことになるかもしれない。救えなかった姉の代わりに、世界の片隅でひっそりと暮らす、二人きりの親子を救うことができるかもしれない。でもやはり救えないかもしれない。でも希望は繋がった。繋がったのだ。
僕は今ふわふわしている。
とにかく素晴らしい舞台である。
極上の映画や舞台を見たあとは、しばらくはふわふわしてしまう。自分を待つ、タフな現実にうまく立ち返ることができないのだ。今、まさにそんな状態である。