A MAN CALLED HORSE
1969年。監督エリオット・シルヴァースタイン。主演リチャード・ハリス。音楽レナード・ローゼンマン。
西部劇、といっても完全にネイティブ・アメリカンの文化・風習を描いた作品である。
保安官も賞金稼ぎもカウボーイも出てこないのてある。60年代に入ると、やっぱこの惑星を支配してるのは白人だよね、っていう思想に対して、それって違くね?などと当たり前なことを考える白人が現れるようになって、騎兵隊がネイティブを撃ち殺すだけではないウエスタンが撮られるようになるようだ。僅かではあるが。
英国貴族のモーガンはなんの苦労もないエゲレスでの日々に飽きてアメリカへとやってきたわけだが、アメリカでもやってることはあまり変わりなく、使えねえ使用人と狩猟に精を出す毎日で、そんな毎日、こんな毎日、あれがこれになりながら川で水浴び中にスー族に捕まってしまったのである。
フルチンで。
使用人たちは殺されてしまったが、モーガンは馬として族長であるイエロー・ハンドに連れていかれてイエローのママンであるバッファロー・カウに馬として譲渡されてしまったのである。
人間なのに。
馬としての日々。
こんな野蛮なアメリカになんて来るんじゃなかったわ、エゲレスでお気楽な人生を送っていればよかったわ、などと遠い夜空を眺めてみても後悔先に立たずなのであった。
だが、少しずつ状況が変わっていく。
自分と同様に捕まってしまい5年もスー族として生きているバタイズと知り合うのである。完全にあきらめムードのバタイズを叱咤激励して逃走計画を練るのだ。
計画とはこうだ。
族長イエローの妹であるランニング・ディアと結婚してから族長を継いで、部族を統率できるようになったら権限を行使して逃げたろ、という壮大なものであった。
しかもランニング・ディアって俺に気があるんじゃね?などと馬のくせに思っていて、まあ実際ライバル部族に遭遇した際に一人で勝利をおさめるという武功を上げ、プロポーズに成功するのである。
だが試練が待っていた。
それは太陽の儀式なのであった。
乳首相撲より痛そうな儀式である。
胸にごつい釣り針みたいなものを刺されて宙ずりにされて夜明けまで放置される。後ろから見ると、ポーズを決めたクリスチアーノ・ロナウドみたいなこの儀式に耐えることによって晴れて結婚となるのであった。
そしてモーガンは耐えた。
だが、その後ライバル部族の襲撃にあい新妻と盟友のバタイズを失ってしまう。戦闘の際にイエロー・ハンドも死に、遂にモーガンは希望どおにり部族を率いることになるのだが、なんかもう違った。悦びを覆い被せてしまうほどの喪失感に襲われるのだった。
非常に不思議な映画である。リチャード・ハリス。ハリーポッターの初代校長。そもそも西部劇なのか?というのもある。主人公のモーガンは英国貴族である。
だがそんなことはどうでもいいのである。
異文化コミニュケーションやら、生き抜こうとする意志やら、あきらめない気持ちやら、まあ色々とあるのだろうが、そんなのどうでもいいよ、ってなるくらいにネイティブアメリカンの生活風習とかが凄くて。凄くて。とても凄くて。
それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない、哀しいだけじゃない。では失敬。