PER UN PUGNO DI DOLLARI
1964年。監督セルジオ・レオーネ。主演クリント・イーストウッド。音楽エンニオ・モリコーネ。
繰り返す日々に疲れたり、ひび割れた日々に酩酊したり、己の正しさが揺さぶられているのなら見るべきだ。マカロニ・ウエスタンを見るべきだ。
でも何から見ればいいかわからないよ。似たようなタイトルが多くて困ってしまうよ。そんなことで伸ばしかけた手を引っ込めたりしたら、もったいないじゃないか。
なんでもいいから見てみればいいわけなんだけど、それでもやはり、ってことならこれしかない。まずは。
「荒野の用心棒」である。クリント・イーストウッドである。
ハリウッド・ウエスタンにしてもマカロニ・ウエスタンにしてもウエスタンのオススメはいくらでもあるのだが、とりあえず初めてのマカロニならこれだ。いわゆるレオーネ監督のドル箱三部作の第一弾であり、マカロニ・ウエスタンというジャンルを確立してしまった作品なのであった。
ジョン・フォードやハワード・ホークスのハリウッド西部劇をリアルタイムで見てきた世代が初めてマカロニ・ウエスタンに接触したときの衝撃は、後追い世代には体験できないものなのであった。まあ、映画でも音楽でも、本物というものはどの時代の邂逅でもその素晴らしさが一ミリでも揺らぐことはないので、どうでもいい、といえばどうでもいいことだ。
生まれた時代を嘆いてみても、前には進まないのであった。
で、いったいそれまでのウエスタンとマカロニ・ウエスタンは何がどう違ったのか。
ひとつは主人公のキャラクター性だろう。
アメリカのウエスタンの主人公は清廉潔癖な男がほとんどだ。理想のヒーローであったり父親像だったりする。つまりは非の打ち所のない男なのだ。
神話をもたない歴史の浅いアメリカという国は西部開拓時代の英雄を神格化する。それ故に西部劇を神話の代替品とし、主人公を非現実的なまでなロールモデルとして登場させるというわけだ。
それに対してマカロニ・ウエスタンの主人公はどうだ。まず、行動が金次第だ。そのためには策略・謀略も辞さない。背信行為も当たり前だ。理想の男には程遠い存在だ。人間のリアルな汚い面・弱い面を隠そうとはしない。故にバッドエンディングも多いわけだ。
大人とは、裏切られた青年の姿である。
というのは太宰治の言葉だが、なんだろう?マカロニ・ウエスタンは傷つけられた人や誰かを傷つけた人、つまりはボロボロになった人こそが見るべき映画なんだと思う。
そんなマカロニウ・エスタン第一作と言ってしまっても過言ではないだろうレオーネの「荒野の用心棒」。ここでは黒澤明の「用心棒」には触れない。ここは西部の町を語るところだからだ。大人になったらガンマンになりたかった、大人になれない大人が語るところだからだ。バキュン。
で、こんな話さ。
主人公は名無しの男。
ポンチョをなびかせて名無しの男が町にやって来るのであった。町ではミゲルとバクスターの二つの勢力が敵対していて、住民たちはいい迷惑なのであった。名無しの男は両陣営を往来し、なにやら画策するのであった。
へへっ、などと敵対する二つのチームを名無しは器用に往復して謀をめぐらすのである。でも策士策に溺れると言うように、いいことばかりは続かないのであって、ばれて、露見して、もち自業自得なわけだが、殴る・蹴る等のリンチを受けることになるのであった。
主人公がフルぼっこにされるのもまたマカロニなわけで、マカロニ・ウエスタンというジャンルを確立したのが「荒野の用心棒」なわけだから、マカロニ・ウエスタンの要素がぎゅぎゅっと詰まっているのは当然なわけである。
OPのアニメーション、他人に無関心な英雄、ポンチョ、口笛のテーマ。などなど。お金だけが友達、そんな名無しの男だが、なんやかんやで腐れ縁のような酒場のオヤジと悲惨な親子三人家族は見捨てないのだった。見せるべきところでは見せる。それが男気というものなのであった。
ラストも酒場のオヤジの大ピンチに爆発と砂埃の中から現れる。トランペットが鳴り響く中から現れる。現れて、拳銃とライフルという不利な対決に敢然と立ち向かうのである。用意周到ではあるが。
誰かがどこからか颯爽と現れる、という中では最もカッコいいのではないか。
ここからすべてがはじまっただけあって、ここにはすべてがある。カッコいいに決まっている、というわけだ。
それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。