片手にドーナツ、心に花束

西部劇、マカロニウエスタン、ときどきアメコミ。

【続 夕陽のガンマン/地獄の決斗】


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Il buono, il brutto, il cattivo

1966年。監督セルジオ・レオーネ。主演クリント・イーストウッド。音楽エンニオ・モリコーネ。

いわゆるドル箱三部作の最終作。三部作といってもそれぞれ独立した作品であり、関連性はないのであった。

イーストウッド演じるガンマンも、ブロンディだったりモンコだったりジョーだったり名無しだったり、公開国によってバラバラで統一してない。

ただ衣装は同じだ。ポンチョだ。名無しの男のトレードマークともいえるポンチョ。

このポンチョは「続 夕陽のガンマン」において名無しの男の手に渡るのだ。まあ、関連性のない三作なのでどうでもいいことなのだが。好事家はこういうところをいじくって楽しむようだ。

時系列で並べると「続 夕陽のガンマン」→「荒野の用心棒」→「夕陽のガンマン」となるらしい。

で、この三作目はレオーネ自身が築き上げたマカロニ・ウエスタンの世界を踏襲することなく、かといってハリウッド・ウエスタンに寄り添うわけでもなく、唯一無二の西部劇となったのである。

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映画「続・夕陽のガンマン」より

というか西部劇なのか?というくらいのオリジナリティー溢れる快作となった。

かつての邦題では「地獄の決斗」という、冴えない中学男子が考えたようなサブタイトルがついていたが、現在販売されるソフトでは削除されてしまったのであった。

赤白のアニメーションとざらついた画によるオープニングの後、いきなり汚いオッサンのどアップ。そして荒涼とした町並のワイドショット。このどアップとワイドのカットはレオーネ得意の演出だ。

この世界は何によって構成されているのか、そんな演出なのかもしれない。

そうして卑劣漢・トゥーコ、悪玉・エンジェル、善玉・ブロンディ(名無し)の紹介がはじまる。とりわけ悪玉・エンジェルには時間を要している。おかげでクリーフが前作とは真逆の冷徹な殺人マシーンを演じていることが理解できる。

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映画「続・夕陽のガンマン」より

そしてどうしても憎めない卑劣漢・トゥーコ。彼のテンションマックスな存在感はブロンディより明らかに上回っていた。

で、こんな話さ。

三人が巧妙に絡みあって隠された20万ドルの金貨を巡る活劇が進んでいく。

 

前二作とは違って流れ者や復讐といったステレオタイプの展開ではない冒険活劇というわけだ。

南北戦争を背景にすることで果てることのない人類による争いの虚しさを描いてもいるのであった。

特に中盤で南軍の捕虜となったトゥーコをエンジェルが拷問するシーン。残虐行為の音をかき消すために外では捕虜の音楽隊が演奏している。

美しいメロディーを演奏している。

涙を浮かべているのであった。

終盤ではブロンディとトゥーコが、南北軍が橋を巡って無益な争いをつづける戦場にたどり着く。ここでも戦争の虚しさが、これでもかというくらいに長い時間を費やして描かれるのであった。

 

ブロンディが死にゆく兵士を看取るシーン、ここであのポンチョを手に入れるのだが、屈指の名シーンである。↓

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映画「続・夕陽のガンマン」より

最後にたどり着くのも、どこまでもつづいていく広大な墓地だ。あまりに多すぎる犬死の累積の結果だ。

そして「人生のアリーナ」という名の円形の広場で三竦みの対決をむかえる。

円。

大きな円に小さな円。構造としての円など様々な円が象徴的に描かれる。

歴史は繰り返すとでもいうように、環は閉じられて円となる。

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映画「続・夕陽のガンマン」より

人間は本質的に愚かな存在なのだ。

マカロニ・ウエスタンというジャンルに属しながらもその枠に収まらない世界観を作り出した、そんなスケールの映画だ。たぶん。

それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。

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