DESTRY RIDES AGAIN
1939年。監督ジョージ・マーシャル。主演ジェームズ・スチュワート。音楽フランク・スキナー。
何が砂塵なんだ?そう思うことうけあい。
まったくもってよくわからない。よくわからないしつまらなそうだな、抽象的すぎるタイトルって嫌だな、砂塵といえばキレンジャーだな、思えば苦しいことから逃げてばかりの人生だな、って思ったりしたのだが、はは、おもろ。なんやかんやであっというまに終幕なのであった。
切手の良さは役目を果たすまで1ヶ所に張付いてること。
主人公デストリーはなにかと「友人が言うには」とか、「聞いた話だと」などと例え話を持ち出しては実証的なのか思弁的なのかよくわからない感じで会話を進めていく男で、切手のエピソードはその一つである。
悪を退治するなんてさっさとあきらめて町を出たらどうだろうか、というススメに対して返した言葉である。ウエスタンっぽくないじゃないか。実に洒落た男なのであった。という非常に魅惑的な主人公デストリー。
で、こんな話さ。
ウエスタン安定の悪徳と腐敗に満ちた町ボトルネック、ここでは市長と酒場オーナーのケントが手を組んでやりたい放題。この町を綱紀粛正すべくデストリーがやってきたのであった。
ボトルネックのアイコン的存在である、酒場の歌手フレンチーを使ったイカサマ賭博の捜査をしていた保安官が殺されてしまうのだが、新しい保安官に選出されたのがアル中のウォッシュというのがまず愉快。こいつなら安心じゃね?という市長らの思惑で選ばれたのである。みんなやりたがらない生徒会長をヤンキーに押しつけられた感じのウォッシュなのであった。
だがウォッシュは実は元保安官で、任せられたからにはきちんとやろうと思う、お酒とか控えようと思う、悪いことはやはり悪いと思う、などとまさかのマインドチェンジで町はざわつくのである。
とはいえやっぱ一人でやるのは嫌だな、この町は最低の町だからな、ってことでウォッシュはかつての相棒の息子であるトム・デストリーを保安官助手として呼び寄せたのである。
だが、やってきたデストリーは思ってたのと違った。ウォッシュは、あれ?って思った。拳銃を携帯せず、趣味はナプキン・リング彫りという男で、小籔千豊みたいなスルッとした男だなあ、こんなんで大丈夫なのかなあ、ってウォッシュは思った。
だが違った。デストリーはできる子だったのだ。こんなんだけど。
殺された前任保安官は、どこか遠くに、ここではないどこかに行ってしまった、ということになっていて、そんなわけないよね、ってデストリーは捜査を開始していくのだが、なんかふわふわしてる。
フレンチーを味方につけてケントと市長を追い詰めていくデストリー。銃など使うことなく、いやラストの銃撃戦では使うが、まあ使うことなく悪徳の町ボトルネックを浄化していくデストリー。
なんだろう。このおもしろさ。地味だがぐいぐい引き込まれていったのである。西部劇初主演のジェームズ・スチュワートがとにかく最高で、この人こんなにカッコいい男だったかしら?などと思うほどなのだ。
デストリーの捜査を手助けするロシア人もキャラが立ってるし、ボトルネックの女王フレンチーも存在感が抜群なのであった。あまり知られていないような気がする西部劇たが、もったいないなあ、と思う。
それじゃあ読者諸君、俺たちの明日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。