Batman v Superman: Dawn of Justice
2016年。監督ザック・スナイダー。主演ベン・アフレック。ヘンリー・カヴィル。音楽ハンス・ジマー。ジャンキーXL。
「息子さんの仲間だ」
「だと思った。そのマント」
この映画は、対立する二つのイデオロギーによって起きてしまった戦いを描いた作品である。
それぞれが掲げる二つの正義。
スーパーマンという人類を滅ぼすほどの強大すぎる力をもった正義。バットマンという超法規的に行使される、恐怖で悪を制圧する正義。
だが重要なのはそこではない。少なくとも観る側にとっては重要なことではない。いや、とても大事なことだが、この映画を見る上ではとりあえず置いておくべきだ。『ランボー』についてスタローンは「ベトナム帰還兵の苦しみを少しでも感じとってくれたら」と、語っていたと思うが、それに近い。申し訳ないが、正直なところ『ランボー』をそんな感じでは見ない。
対立する二つのイデオロギーは、二大スーパーヒーローを対決させるために必要なだけなのだ。
と、割りきってしまうべきである。
そもそも結論の出る対立ではない。少年法改正や死刑制度廃止の議論と同じである。
端的にいえば、互いに相容れない正義を掲げた二人のヒーローが対立し、戦い、理解しあい、共闘する、という映画である。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
ということは本来ならば同じ比重で語られていなければならない二人のスーパーヒーローなのだが、明らかにそうはなっていない『バットマンVSスーパーマン』(以下『BvS』)という割にはバットマンに重きが置かれているのだ。
『マン・オブ・スティール』(以下『MoS』)の続編なのだが、ブルースがクラークを脇に追いやってしまっているのだ。
『BvS』はバットマンが再起し立ち上がる脇でスーパーマンが試練を乗り越え覚醒する物語、というわけだ。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
前作のクライマックスで幕を開ける。
スーパーマンとゾッド将軍の闘いで破壊されていくメトロポリスを、ブルース・ウェインの目線で我々は見ることになる。
空から男が来たことでこの世界は変わった。
ヒーロー活動を引退していたブルースが、とんでもない力をもったスーパーマンの出現に対して危機感を抱いたわけである。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
メトロポリス決戦の18カ月後。
強大な力を持ちすぎるスーパーマンに対して行動を起こしたのはブルースだけではなかった。超巨大企業レックス・コープのCEOレックス・ルーサー、そしてアメリカ政府。
構図としてはスーパーマンを危険視する三つの勢力。すなわちバットマン、レックス・ルーサー、アメリカ政府。
で、バットマンに不快感を示すスーパーマン。さらにルーサーに対して疑惑の目を向けるバットマンとスーパーマン。といった感じである。これらが複雑に絡み合って話は進んでいく。
インド洋で発見された巨大なクリプトナイト(ワールドエンジンの残骸)を対スーパーマン兵器として利用しようとするルーサー、そしてそいつを同じ目的で強奪しようとするブルース。
さらにルーサーはアメリカ軍によるナイロミ革命軍の掃討作戦とロイス・レインを利用して、スーパーマンのネガティブキャンペーンがアメリカ国内で展開していくよう暗躍する。
バットマン、スーパーマン、ルーサー、アメリカ政府、これらだけでもじゅうぶんに混乱を招くのだが、さらには後の『ジャスティスリーグ』(以下『JL』)の伏線となるメタヒューマン情報や、ブルースの悪夢などまで参戦してきてカオスさは増していくのみである。
でもまあ骨組みを理解しておけば大丈夫。二回三回見れば大丈夫。
要はバットマン、ルーサー、アメリカ政府らに包囲網を敷かれるスーパーマンがひとり、バットマンは危ない、と動き回ってる状況だと思えばいい。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
で、ここで考えたいのは、なぜ引退したバットマンにしたのか、ということである。
バットマンの名作コミック『ダークナイト・リターンズ』を下敷きにしたかったから。というのでは見も蓋もない。もちろんそれもあるだろう。だがそれだけではないはずだ。
まだ駆け出しのヒーローであるスーパーマンと対峙するバットマンを、超ベテランで老獪なテクをもつヒーローにした。
これによって圧倒的不利なバットマンに光明を見出だすことができる。ヒーローとしての経験値はバットマンのほうが上である。荒削りなスーパーマンになら、どうにか、どうにか対抗できるというわけだ。それでも無理はあるが。
バットマンが引退した原因は『BvS』では描かれていない。おそらくは「ロビンの死」と関係があるのだろう。バットケイブに悲痛な状態で陳列されている、焼け焦げたようなロビンのスーツが無意味な演出であるわけがない。
単に『ダークナイト・リターンズ』の要素を入れたかっただけかもしれないが。もしかするとバットマン単独作で少し過去にさかのぼりその経緯が描かれる予定だったのかもしれない。老いたブルース、少しだけ若いブルースを演じるのにベン・アフレックは最適だったのではないかと思わないでもない。もう実現することはないが。
『BvS』のバットマンは「ロビンの死」という悲劇を背負い、すでに若くはなく、痛々しくボロボロで、全身傷だらけである。
このバットマンには後の『JL』完結編において辛い運命が待ち受けることになっていたのかもしれない。バットマン再起の物語は序章の『BvS』ではじまり、仲間を得て、『JL』完結編で哀しい結末を迎えることになっていた、のではないか。これも実現することはないが。
はあ。男のため息。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
そんなズタボロのバットマンに対してスーパーマンの物語は始まったばかりだった。
駆け出しのヒーローであるスーパーマンに、スナイダー監督は試練を与えた。民衆からは「偽りの神」と呼ばれ、ルーサーには「悪魔は空からくる」と皮肉られる。バットマンには「血は赤いのか?」「お前は神じゃない、人間でもない」と言われてしまうのだ。そのとおりなのだが。
クラークはまだ真のスーパーヒーローではなかった。父ジョナサンが夢見た未来の息子を具現化しただけのヒーローでしかない、とクラークはロイスに告白し、山へと逃避行してしまう。山でクラークは幻想のジョナサンと対話する。そこでジョナサンはかつて自分がマーサに言われた言葉をクラークに伝える。「なすべき善がある」
『BvS』におけるスーパーマンはまだ、発展途上のヒーローだった。「ヒーローになりなさい、でもならなくてもいい。この世界に借りはない」と母マーサに言われるのだが、クラークは真のスーパーヒーローへの道を選択するのである。
ジョナサンが予見していた試練を乗り越え、壮絶な結末をむかえて遂に人類に受け入れられるのだ。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
二人の対決は「マーサ」というキーワードで終止符をうつ。
この展開は賛否両論だったようたが、僕は断然賛成派である。人間を超越した異星人であるクラークも「人の息子」だと気づいたブルース、それだけでじゅうぶんである。こんなことで世紀の対決が終わるのか!と反対派は受け入れられないのかもしれないが、こんなことで終わるのだと思う。
この映画は葬儀で始まり、葬儀で終わる。どちらにも参列しているのがブルースである。
この二つの「死」の間にもう一つ「ロビンの死」がある。ブルースは「死」にまとわりつかれている。幾つもの悲劇を背負いボロボロのバットマンは自ら死に急ぐようにヒーロー活動を再開する。そこにヒーローとして覚醒していくスーパーマン。
この二人を軸にさらに仲間が加わり『JL』へと進んでいく。『BvS』で散りばめられた伏線は『JL』で回収される予定だったのだろうが、スナイダーの監督降板などにより幻となった。
映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」より
スマートさはない。いろいろと詰め込みすぎて、ボロボロになってしまっている映画だ。スクリーン上のバットマンと同様に、まるで死に急ぐかのようだ。
しかも詰め込んだものがことごとくなかったことになりそうな気配だ。ベン・アフレックも降板してしまった。DCEUにユニバースはもうない。嗚呼、でも好きなのだ。批評家に、映画ファンに、アメコミファンにボコボコにされてもこの映画が好きなのであった。