MAN OF STEEL
2013年。監督ザック・スナイダー。主演ヘンリー・カヴィル。音楽ハンス・ジマー。
「父さんの子供でいちゃダメ?」
「お前は我が子だ」
今さらながらのスーパーマンなのであった。でもスーパーマンである。「今さらながら」もなにもないのである。
『アクアマン』大ヒットによってますますDCEUの路線変更は加速していくようで、DCユニバースが映画の中では拡がっていかないのは残念きわまりない。でもDC映画がヒットしてくれないとすべてが終わってしまうかもしれない。それはとても哀しい。ボロクソに叩かれるのはもっと哀しい。ヒットしなければその後は頓挫してしまう。それは当然である。だからワーナーは考えた。スーパーマン、バットマン依存をやめよう。彼ら以外の強い柱をつくろう。
それはまあ、いい。仕方のないことだ。というかとても前向きだ。
でも忘れないでほしい。スーパーマンは永遠のアイコンなのだ。まあ、アメリカ人にとって、なわけだが。だから今さら語るわけである。それならとりあえずドナー版を語ればいいのでは、とも思うが、まあ、いいじゃないか。
というわけで鋼鉄の男、明日の男、すなわちスーパーマンである。どうもDC映画は賛否が別れる。
クリストファー・ノーランのダークナイト3部作がヒットしたのでスーパーマンも、じゃあ、って感じでトーンを暗くしてみた。すると世間は、スーパーマンはこんなんじゃない、などとついてきてくれなかったのである。特にドナー版を愛する世代は。ノーランのダークナイト3部作好きしかついてこなかった。時代は変わっていたのだ。
明るく楽しいスーパーヒーロー映画の時代だったというわけだ。スーパーマンだけではない、その後のDC映画は『ワンダーウーマン』以外はことごとく失敗作などと言われたりするのだ。ひどい話さ。でもまあ、そんなこと知ったことか。
『マン・オブ・スティール』(以下『MoS』)はダイナミズムあふれるアクションシーン満載で、CGもとにかく鮮烈である。
やはりそこはザック・スナイダーなのだ。ノーランではここまではいかない。でもぼくがこのヒーロー映画を何度も何度も観るのはそこではない。
アクションは確かに感動的な映画体験なのだが、そこではない。監督スナイダー・製作ノーラン、この二人が起こした素晴らしいケミストリーが素晴らしいのであった。
というわけで、ここではアクション映画としての素晴らしさにはあまり触れないでおく。
普通ではない人生を背負わなければならないクラーク・ケントはこれでもかと苦悩し、模索する。
スナイダーはこのスーパーマンのオリジンに徹底的にこだわった。クリプトン星の描写から幼年期・少年期のクラークにけっこうな尺を割いた。
人間以上の能力のために見えすぎる、聞こえすぎる、で、「あかん、自分には世界は大きすぎますわあ」と発狂寸前の幼いクラークに母マーサは世界を小さくしなはれ、と独自のテクを教える。
そして父親であるジョナサンは「力を使ったらアカン、人助けでもアカン」とクラークに教え諭す。
遂にはハリケーン遭遇時に、能力を使えばジョナサンを助けられたのだが、あかん、まだ早いと制されて結果的にクラークはジョナサンを見殺しにしてしまうのだった。
狂信的なまでにジョナサン・ケントは、時期がくるまで能力を隠せとクラークに教えた。自分の命を犠牲にしてまで。
なぜか。
トンデモ能力の持ち主だとバレた途端に世間の反感を買うし、あいつ絶対アレだぜ、などと陰口を叩かれたり、ていうか助けた他人の人生までをも変えてしまったり、さらには世界の構造を根本的に変えてしまうという大変なことになるからだ。
だからジョナサンは、自分が地球に送られてきた理由を一生かかってでも解明しろと、どんな大人になるかを自分で決めろと、クラークに選択を迫るのである。
どうしてスナイダーはここに多くの尺を割いたのか。ドナー版はさらりと終わっていた。でもスナイダーは徹底的にスーパーマンのオリジンを描いた。
悩み放浪する現在の青年クラークと、様々な問題に直面する幼いクラークとを無秩序に描く構成によって、クラークがスーパーマンとして覚醒するまでの混乱や不安定さなどを剥き出しにしていたと思う。
あれだけジョナサンに力は使うなと言われたのに腹いせにこそっと使ってしまうクラークはあまりに未熟だ。
スーパーマンは地球での能力を考えると神のような存在である。崇められ、恐れられる。スーパーマン単体で終わる映画ならば神のような超越者としてもっと素直に端的に語ることになったのではないか。
だが、後に展開していく『バットマンVSスーパーマン』(以下『BvS』)や、『ジャスティスリーグ』における他のスーパーヒーローとの共演を考えるとスーパーマンの能力は突出しすぎている。そのためのオリジンだったのではないか。
スーパーマンはスペシャルでありスペシャルではない。神のような存在であるスーパーマンではあるが、やはりそこはあくまで「神のような」であり、一人のクリプトン人でありカンザスで育った青年なのだ。30過ぎまで「自分探し」で放浪する困ったさんなのだ。
混迷し悔恨し模索するオリジンを、家族の絆を描くことで彼もまた人の息子だったのだと、ぼくらと同じだったと提示したのだ。スーパーヒーローのスーパーではない一面をさらけ出したのだ。
普通の男であるバットマンと対峙したときの、地球の危機に他のスーパーヒーローと並んだときの、スーパーマンの超越した存在感を目の当たりにしたときにぼくらはこのことをふと思い出すことができる。
もちろん、一本の単独映画として考えるならば、これは不親切である。
というか『MoS』公開時は後の展開を考えて見る人はいないだろう。
『BvS』におけるバットマンの行動理念も、ゾット将軍とのバトルによって結果的に生じてしまったスーパーマンの破壊行為に起因しているわけだが、当然『MoS』を見た後にそんなことがわかるわけがない。
このへんが不評の一因でもあるし、欠点になっているのではないか。スーパーマンが懊悩している姿なんか嫌だ、街を破壊しすぎるスーパーマンなんて嫌だ、といった問題だ。
個人的には後の展開に関係なくスーパーマンのオリジンはこみ上げるものがあった。
監督スナイダーはクラーク・ケントを、覚醒後のスーパーマンも不完全な存在として描いた。スーパーマンを神として描いてない。
神のような存在になってしまいそうなスーパーマンをカンザスの息子として描いた。地球人を信じることができないというクラークの背中を最後に押したのは神父様なのだ。
スナイダーはただ、「スーパーマンを神のように崇めることを選択した地球人」を描いたのだ。当然のことにそれに対するアンチの選択も立てている。それによって現代の闇(主にアメリカが抱えている)を浮き彫りにしているというわけだ。
そしてジョー=エルとジョナサン・ケントの二人の父親は、同じ息子に対して真逆の未来を見ていた。
ジョー=エルは、「皆がお前に憧れついてくる、つまずきながらも、いつかは共に光に包まれるだろう」と。対してジョナサン・ケントは、「理解できないお前を人間は恐れるだろう」と考えた。
そしてクラークが迫られたのと同様に地球人も、さらには見ている我々もまた選択しなければならない。何を選ぶかで世界は、未来は変わる。世界は単純ではない、ということをスナイダーは強烈に描いたのだ。
それぞれ光と闇の未来を見据えた二人のパパだが、ひとつのことだけはぶれることなく信じた。いつか来る選択の時に、クラークは「必ず正しい道を進む」ことだけは二人とも信じていた。
ラスト、幼いクラークが赤いマントをひるがえして犬のハンクと遊んでいる。そんな我が子を誇らしげに見守るジョナサンとマーサ。カンザスの美しい風景と相まって、とても素晴らしく、胸をうつシーンである。
リアリティを追及したスーパーヒーロー映画なので痛快さや爽快感は薄い。ドナー版のような勇壮な音楽もない。
その代わりに現れたスーパーマンは遠い星のようであり、近くの君でもある。
とにかく、いい映画である。風評に惑わされてはいけない。騙されたと思って見てほしい。騙された!と思うかもしれない。でも選択するのは自分自身だ。そうでないと、まるで意味ないもんな。