明日会おうよベストな体調で

西部劇、マカロニウエスタン、ときどきアメコミ。

【奴らを高く吊るせ!】

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HANG'EM HIGH

1968年。監督テッド・ポスト。主演クリント・イーストウッド。音楽

 

マカロニウエスタンから凱旋したクリント・イーストウッドの西部劇第1弾である。いわゆる西部劇定番の復讐の話なのだが、そう単純でもない。やはりクリント・イーストウッドは簡単には終わらない。


で、こんな話さ。
大量に牛を購入し、はは帰ろ、などと帰路につくクーパーは9人の阿呆な西部の男たちに牛泥棒の濡れ衣を着せられ、裁判もせずに首を吊られてしまう。吊られながらも気合いで生きのびたクーパーは通りすがりの保安官に助けられる。無実も証明され、クーパーは復讐に走るのである。

 

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映画「奴らを高く吊るせ」より

ひとり、またひとり、ヒヒ、そんな感じで9人の男たちを粛清していく、わけなんだけど、それだけではない。クーパーはひたすら復讐に勤しむわけではないのである。

なぜならクーパーは命を救われた町フォート・グラントで保安官になるからである。保安官になることで堂々と復讐を遂行していくのだが、通常業務もあるわけである。復讐したいなあ、と思いながらも仕事しろとフェントン判事にパワハラまがいに圧をかけられるのである。

 

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映画「奴らを高く吊るせ」より


単純な復讐劇ではない、というのはフォート・グラントという町の特異性にもあって、この町ではやたらと死刑が執行される。

フェントン判事が罪人を生け捕りにしてこいと厳命するからである。

保安官らの人手不足に苦慮する判事は、死刑を乱発することで見せしめとし、また保安官を英雄ににすることで治安を維持したいのだ。町では死刑執行がイベントとして受け入れられている。

だがこの乱発によって死刑は私刑となってしまう。牛泥棒の片棒を担ぐも殺人には加担してない十代の若者ですら情状酌量の余地はない。


また、町に住むレイチェルは、かつて夫を殺し自分を暴行した男たちを探し、首吊りになるのを待ちつづけている。クーパーとは別のもう一つの復讐劇である。

「いつまで探しつづけるのだ」というクーパーの問いかけにレイチェルは「わたしはいつでもやめられる。でもあなたは?」と問い返す。

クーパーは「俺が探しているのは、あんたと違って亡霊ではない」と答える。ひどく虚しい会話である。男女の関係に進みそうで進まなかった二人の会話である。

 

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映画「奴らを高く吊るせ」より


と、先にフォート・グラントという町の特異性と書いたが、実際に映画でもクーパーの視点では異様な町として描かれているが、西部の町ってだいたいこんな感じ、という気がする。

合法で人が人を殺すことの是非や、アメリカという国が掲げる正義とは何か?暴力に対抗するための暴力といった普遍的なテーマを描くのに西部劇は最適だったのだろう。

なぜなら、形を変えて今もまだつづくこれらの問題は、ここから始まっているからだ。イーストウッド監督映画でも「許されざる者」「グラン・トリノ」「アメリカン・スナイパー」と西部劇、非西部劇において同様のテーマが受け継がれていく。

ラストではクーパーと判事の間にできた溝が少し埋められるのだが、どよーん、やはり暴力の連鎖は終わりそうもなく終幕する。

 

それじゃあ読者諸君、毎日は愉しいだけじゃない。哀しいだけじゃない。では失敬。