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「ワンダーウーマン」と世界市民はすべての旗を降ろす

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WONDER WOMAN

2017年。監督パティ・ジェンキンス。主演ガル・ガドット。音楽ルパート・グレッグソン=ウィリアムズ。

 

「みんな、それぞれの戦場で戦ってるんだ。君と同じようにね」

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

新作「ワンダーウーマン1984」がそろそろ公開か、じゃあ、って前作をあらためて見ておこう、そうしようと考え、久しぶりに「ワンダーウーマン」を見たので、せっかくなので先延ばしにしていた感想を書こう、と思ったたわけだが「ワンダーウーマン1984」の公開は延期になっていた。アメリカ公開は10月2日となったようだが、日本公開日はまだ未定である。→日本公開は10月9日に決定した。

 

予告編でニュー・オーダー「ブルー・マンデー」か流れて、それだけでゾクゾクしたわけだが、とにかく早く見たいものだ。黄金聖衣みたいな新衣装は、ムム、となったのだが。まあ、とにかく、いまさらながら「ワンダーウーマン」について書いてみる。


さて書くか、なんてかしこまって頭を整理しはじめたのだが何やら違和感があった。なんといいますか、何をどう書けばいいのだろうと困ってしまったのだ。

 

書きはじめるのに、えらく苦労したのである。

 

なぜか。おそらくはこの映画がヒットしたからだろう。これまでのDCEU作品は興行的にはふるわなかった。評価も泣きたいくらいに低いのである。そんな論調を覆してやろう、という熱き心や反逆心があったわけだが、今回はないわけだ。なぜならヒットしたから。これまでと勝手が違うのだ。まあ、いいけど。

 

 

 

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

で、DCEU第4弾にして、ここまで成し遂げることが叶わなかった、アメコミが描く世界の深遠さとエンターテインメント映画の娯楽性を両立することにそれなりに成功し、認知された作品である。

 

DC映画にとってはまさに救世主ともいえる作品というわけだ。一級のアクション、程よいユーモアに加えて伝えるべきことは明確に伝える。教科書のような映画なのだ。そこにある種の薄さを感じないわけではないのだが。

 

冒頭のセミッシラでの戦いは、いきなりクライマックスともいえるほどの迫力である。

 

アマゾン族のお姉さまたちのアイデアに溢れたアクションは新時代の幕開けを予感させるような、近年稀に見る完成度だった。というのは言い過ぎかもしれないが、当然のことに男だらけのドイツ軍兵士たちをアナログな武器で次々とぶっ殺していくのは爽快であった。

 

非常にクオリティの高いアクションに圧倒されたと思ったら、ダイアナがトレバーと共に戦争を終わらせるためにセミッシラを出て外の世界に足を踏み入れることで、物語は動きだす。

 

外の世界は第一次世界大戦末期という状況である。なぜ「ワンダーウーマン」では時代設定が第一次世界大戦中の1918年なのか。


ここがこの映画の最重要ポイントだろう。主演のガル・ガドットがイスラエル出身の女優であることから、第二次世界大戦でナチス・ドイツを相手にするのはちょっと、というのは深読みかもしれないが、とにかく第一次世界大戦は戦争そのものに大きな変革をもたらした戦争であった。

 

大量破壊兵器の投入により、戦争の様相が一変したのである。上空でボタンを押せば地上の多くの人を殺すことができてしまう。相手の顔を見ることなく、効率よく殺すことができてしまう。

 

人間が人間ではなくなってしまった最初の戦争なのかもしれないが、逆に人間の醜い面が全面に出たという意味で人間らしい戦争でもある。第二次世界大戦を舞台にして、従来のアメコミのようにナチス・ドイツや大日本帝国を安易に絶対悪として描くことはしなかったのが「ワンダーウーマン」というわけだ。

 

 

 

 

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映画「ワンダーウーマン」より


ダイアナはどうして戦争が起きているかを理解していない。人間同士が殺し合うなどあり得ないと考えている。

 

ということは背後でアマゾン族の敵である軍神アレスが糸をひいているに違いない、だからアレスを倒せば戦争は終結するという結論に達する。

 

もちろんそんなことはない、ということをトレバーはそれとなーく、アレスを全否定はしないがそれとなーくダイアナに伝える。もちろん我々も知っている。なぜなら数十年もしないうちに、またとんでもない世界大戦が勃発することを知っているからだ。


もちろんそんなことは知らないダイアナは、アレスに取り憑かれた(と思っている)ドイツのルーデンドルフ将校目指して進むのだが、中途であれもこれも助けようとする。

 

とある前線にて見棄てられた村を救おうとするが、「すべての命は、救えない」と、トレバーに止められる。だがダイアナは行くのである。


「それでも私は行く」


ここでようやく、あの衣装が全身で姿を現す。この世界に初めてスーパーヒーローが現れた瞬間といってもよい。

 

ダイアナには命に優先順位などつけられない。目の前でボロボロになっている人たちを放っておくことなどできないのだ。長年膠着状態であった前線の無人地帯にひとり乗り込むダイアナの勇ましさ。さらにつづいていくトレバーと仲間たち。連合軍の兵士たち。

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

あのテーマ曲にのってダイアナと仲間たちが奮闘し、救った村は結局はルーデンドルフによるガス弾攻撃で壊滅してしまう。

 

「ワンダーウーマン」が単なるスーパーヒーロー映画ではなく、戦争映画でもある、ということがよくわかる。その後ドイツ軍基地においてルーデンドルフ将校を倒すが、もちろん戦争は終わらない。兵士たちはもくもくとガス弾を飛行機に積んでいくのだ。

 

まるで「個」などないように兵士たちはガスマスクをかぶり、匿名性の高いその集団は作業をすすめていくのである。その光景に絶望したダイアナにトレバーが初めて語気を強めて言うのである。


「僕だって悪者のせいにしたい。でもそうじゃない。戦争はみんなの責任なんだ」


誰かひとりが戦争を引き起こしているわけではない、世界はそんなに単純ではない。安易な二元論で戦争は止められない。トレバーだって加害者である。戦争を終わらせるための戦争、と呼ばれた第一次世界大戦だが、なんであれトレバーたちは今目の前で進行中のガス弾によるロンドンでの大量殺戮計画を阻止しなければならないのだ。


ダイアナの前にアレスが現れる。確かに黒幕はアレスだった。だが、アレスは人間たちにささやき、啓示を与えただけである。すべては人間の選択の結果なのだ。人類に救う価値があるのかわからなくなったダイアナにトレバーが最後の言葉をかける。


「僕は今日を救う、君は世界を救え」


ガス弾を積んだ飛行機に乗り込んだトレバーは安全な場所で爆発させ、ロンドンを救った。トレバーとの愛を確信したダイアナは真の力を覚醒させ、アレスを倒す。

 

するとどうだ。降り注ぐやわらかな朝の光の中で、ガスマスクを外した兵士たちから「個」が現れたのだ。魂が解放されたのだ。

 

彼らは眩しげに空を見ていた。敵でしかなかったドイツ兵たちが、ごくごくありふれた若者たちやおっさんたちでしかないと、わかった瞬間である。

 

「ワンダーウーマン」には純粋な意味でのヴィランはいない。仮にアレスがいなくても戦争は起きただろうし、この先も起きる。この映画では人間こそがヴィランであり、またヒーローでもあるのだ。

 

 

 

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

「誰の心の中にも 常に光と闇がある。選択によって人は決まる。それは英雄にも変えられない」


ルーデンドルフ将校を倒しても何も変わらない兵士たちによって人間の闇を描くという、スーパーヒーロー映画としては異質な展開ながら、最後は人間の光をきちっと出してみせた。

 

人間のもつ光と闇、単純に割り切れない正義と悪、これらはDCEU作品で常に描かれてきたテーマである。

 

「マン・オブ・スティール」でも、「バットマンvsスーパーマン」でも、「スーサイドスクワッド」でも形を変えて描かれてきた。

 

現代的・先進的な定義の正義を描くマーベル映画とは異なり、DC映画は恒常的なテーマで正義を描いている。

 

そんな中でこの「ワンダーウーマン」が最も成功したのは、やはり現実の第一次世界大戦を背景にしたからだろう。

 

実際にこの戦争はあったし、人間の愚かさも現実である。だが百年以上前という歴史が、映画としてのフィクション性をもたらしてもくれる。

 

さらには女性の参政権が不完全で、男性と同等の権利を求め、女性解放の気運が高まり始めた時代でもある。ワンダーウーマンというキャラクターのオリジンを描くには、非常に絶妙な時代設定である。

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

忘れてはいけないのが、この映画の素晴らしき仲間たちだ。

 

というか「ワンダーウーマン」最大の魅力がチーム・トレバーの面々である。彼らの存在がこの映画を成功に導いた最も重要な側面だと思っている。

 

プロローグで、一枚の古い写真を受け取るダイアナ。「バットマンvsスーパーマン」で登場した写真をブリッジにして二つの作品をつなげている。こうして導入部に持ってくるだけで、ダイアナの哀しみの日々が伝わってくる。

 

写真に写る男たちはもういない。ダイアナは生きてるが、トレバーたちはもういない。たった一枚の写真で、ダイアナがこの世界でどのようにして生きていかなければならないのかが、なんとなく垣間見えてくるのだ。

 

そして映画本編を見ることで、この写真の男たち、さらにはトレバーの秘書のエッタ・キャンディも含めた仲間たちの素晴らしさがわかる。

 

ふたたびエピローグでこの写真と再会するときには、ダイアナだけでなく、我々もまた二度と彼らとは会えないという現実を突きつけられ、なんともいえない深い哀しみに包まれるのだ。


サミーア、チャーリー、酋長、彼らは戦争によって追われ傷つけられた人たちである。彼らは結局は無償で、世界を救うためにトレバーに協力するのだ。彼らは彼らにしかできないことで、ダイアナを支えて、トレバーと共にあの日を救ったのである。彼らとトレバーの尽力によって、幾多の魂が解放されたのである。

 

まさに魂解放機構である。この素晴らしき仲間たちが百年前の仲間たちだという切なさ。そんな孤独なダイアナに、すべてを理解した新しい仲間たちができるかもしれない。つづく「ジャスティスリーグ」はそんな希望を抱かせてくれる映画でもあったわけだ。

 

 

 

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

「誇りに思うべきよ」


初めて食べたアイスに感激したダイアナは、アイス屋に言うのである。単なる「ローマの休日」へのオマージュではない。

それぞれの輝きかたで、誰もがヒーローになれるという、普遍的なメッセージである。「マン・オブ・スティール」からも「バットマンvsスーパーマン」からも発信されたメッセージだ。僕も君も、世界中の誰でもヒーローになり得るのだ。

 

1918年を背景にしたことで疑問も残る。疑問というか、関心というか。果たしてダイアナは第2次世界大戦など、後の大戦などで何をしていたのか?ということである。この問いかけに「ワンダーウーマン1984」が明確に答えてくれることを切に望む。

 

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映画「ワンダーウーマン」より

 

 

それじゃあ読者諸君、毎日は哀しいだけじゃない。愉しいだけじゃない。では失敬。

 

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